日本書紀は、奈良時代に舎人親王らの撰で完成した、日本に伝存する最古の正史です。 神代から持統天皇の時代までを扱ったこの歴史書の中にも、真珠はたびたび登場しています。
豊津の海から真珠が取れた。これは凄いことだという内容です。
如意珠は仏教の如意即至宝につながります。
つまり、当時の真珠は相当「貴きもの」として崇められていたのでしょう。
その他にも、
巻第十一 仁徳天皇(325年)
巻第十三 充恭天皇(425年)
巻第十六・十八 武烈天皇(449年)
の中に真珠に関する記事がみられます。
例えば、巻第十三の十にはこのように記されています。
この文で見分けられるように、真珠といえば「あわび」珠だったのでしょうか。
いえいえ。そうではなく、ちゃんと真円の「あこや」珠もあったようです。
巻第二十五 孝徳天皇 大化二年(646)、この条に埋葬の詔(みことのり)あります。
その内容は
要するに、葬は隠すことであり 人の見えないところに埋めるものであるという意味です。
派手にして目立つ事をするのは愚かな行為とされていました。
そして、この詔の中に「珠玉を口に含ませる」と記されている文があるのです。
そして、この文の「珠玉」こそ、昭和54年1月18日に発見された太安万侶の墓から出土した真珠4個だと考えられます。
この真珠は直径2ミリ〜3ミリの円形の珠で 遺骨と共に灰土の中から出ました。
この墓は底に木炭が敷き詰められ、その上に墓誌の銅板が置いてあったので、太安万侶と限定できました。
安万侶の屍は火葬されたの後、改葬されています。
この真珠が副葬品なのか、どこの産物か、なぜ火葬で焼けなかったのか、などなど謎も多いのですが、おそらくこれは「あこや」珠なのではないでしょうか。
現在の志摩地方でも、死者の口に水を注いだり 米粒(真珠)をいくつか口にいれる習慣が残っています。
この習慣は、「飯含(がんはん)」や「送終口中玉」と言って、周の時代の中国にはすでに存在していたものです。
中国では普通は奇数を重んじますので含玉は1、3、5という数になったのでしょう。
しかし、日本は偶数尊重の文化ですから、安万侶は2個づつ奥歯に入れ4個となったのではないでしょうか。
最後に、志摩の海が『真珠の故郷』と謂れの所以は、吉田東伍の『大日本地名辞書』にて読み取ることが出来ます。
大日本地名辞書の志摩国の項に、
『日本書紀に阿波び之羅陀魔(あわびしらたま)とあるを私記に真珠と訳す
即 阿古也玉(あこやたま) 一名志摩白玉と伝者是也
此志摩津というは志摩人の謂にて国造本紀に志摩国を島津に作る』と記されてます。
遥か昔から志摩の海は豊穣の海だよと褒めて貰った気分です。心から嬉しくなった一文です。
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